20年目の覚え書き 日々のたわごと 2015年01月17日 長くなりすぎたのと、最後の方が完全に自嘲なので、続きに入れました。阪神大震災から20年。忘れたいこともあるけれど、忘れちゃいけないものもある。毎年こんなことしてる気はするけど、覚えていることと、今思うこと。 前夜は宿題やら翌日の百人一首大会の準備やらで日が変わってしばらくしてから寝た。早朝、違和感に目覚めて、時計を見たら5:45頃。変な時間に目覚めたと二度寝の体制に入った途端、ドン!という下から突き上げるような衝撃と直後からの激しい横揺れ。最初の揺れで反射的に頭まで布団を被った私は、江戸時代くらいからの古い建物だった当時の自宅の、ラと細かい砂のようなものが被った布団の上に落ちてくるのを感じながら、「何が起きた?地震だ!しかも大きい。まだ止まらない。なんだこれは!?」という自問自答を繰り返していたのだと思う。横揺れ始まってすぐくらいに、同じ2階の襖の向こうの部屋で寝てた祖母の悲鳴と祖父の「地震や!布団を被れ!」の声。階下がどうなってたかは後から弟に聞いたが、下の弟は私と同じように縦揺れ直前に違和感で目が覚めたことで対応が早かったらしい。上の弟は元々のんきなので、揺れ始めてから「揺れとるー」と布団を被ってやり過ごしていた。母は、弟のそばにいたはずだが、弟たちに大丈夫かと声を掛けながら、やはり布団を被っていたそうだ。……ただ一人、大騒ぎしていたのが父。自分の寝てる真横にテレビがあったからかは知らんが、テレビ押さえながら一人で地震や地震やと叫んでいたらしい。長い揺れがおさまって、私はすぐにラジオを付けた。夜中にラジオを聴く習慣があったから、ラジカセに必要なチャンネルを登録していたので、すぐNHKにつながった。そのすぐあとに祖父が「テレビや!ニュースや!」とテレビを付けたので、ラジオを消し襖を開けた。幸い。私も祖父母も2階の部屋も被害は全くなく、天井から落ちてきた砂等で少し汚れたくらいだった。速報のテロップ。そして、次々と各地の震度が表示されてゆく。震度は4だった。震源地と震度などの情報をあらかた把握したところで、階段の明かりがつき、階下から母の声。私と祖父母の無事を知らせた。神戸の映像が流れてくる頃には、学校に行く準備を済ませていた。県下では目立った被害もなく、とにかくニュースで情報を見ながら(携帯もない時代なので情報源はテレビやラジオだけ)朝食をとり、家を出る支度をしていると、一緒に登校していた友人から電話。「学校あるんかな?」思わず、「警報違うから出てきなさい!」とツッコミただ、普段は細い抜け道で学校までチャリ通していた私たちだったが、電車は遅れてる可能性があるし、チャリで一番広い通り使って行くことにした。通学路も特に被害はなさそうだった。学校に着くと、やはり皆ざわざわしていて。それでも、被害のない地域は普通に学校がある。中には、地震が夢だったと思ってたという揺れの中爆睡していたらしい強者も何人かいたが、教室のそこかしこで、自分がどうしていたかなどの情報交換が行われていた。しかし、大きな地震の直後だ。朝のホームルーム最中に、大きい余震が来た。瞬間、クラス中が一斉に机の下に潜り込んだ。子供の頃から教え込まれてきた物は、意外と、反射的に出てくるものなのだと思った。しかし、ほぼ大人と同じ体つきの高校生に、学校の机は小さすぎた。こんなに小さかったのかと思った。その後も、何回か授業中の余震があったり、昼休みに職員室のテレビで情報を仕入れてきた生徒からの速報で被害の大きさを知ったり、と落ち着かない時間か過ぎていった。親戚や友達が神戸にいる子は、そわそわしていた。私も、親戚と小学校の恩師が神戸の辺りに住んでいたから、心配だった。それ以上の揺れは起こらず、放課後になった。放課後は、百人一首大会の個人戦があることになっていて、地震被害のない地域で学校行事が延期されることなどなく、参加することになっていた私は、他の誰より早く会場となる作法室に行った。作法室は、茶道部だった私の部室でもあり、そこには茶碗や花瓶など割れ物が多数ある。どう考えても、そのうちのいくつかは、朝の揺れで倒れているだろう。そう思って、駆けつけた。何しに来た?という顔の設営担当の先生は無視して、顧問の先生たちの方に向かえば、花瓶1つと茶碗がいくつか割れていたと聞かされた。割れたものは先生が片付けてくれた。出場者は大人しくしてろと諭され、それでも落ち着かない私は、部屋の中をうろうろして設営の邪魔にならない程度に、部の備品を片付けていた。その途中で、同じく個人戦に出る後輩も、部室が心配で……と早く来たので、二人で気になるところを片付けた。百人一首大会の話は関係ないので省くが、終了後に帰宅した私は、夕刊とニュースで、地震の大きさを知ることになった。次々と行方不明者や死傷者の名前が出る。何度も何度も、煙の上がる町と倒れた高速道路の映像が流れる。人間の無力さを実感した。幸い、親戚は、住居が高台だったこともあり、被害は全くなかったそうだが。眼下の町の惨状に震え上がったそうだ。恩師も、何も被害はなく、今でも元気にされている。某大手スーパー勤めの母は、いつもより早めに出勤したそうだ。それは正解で、想像通り、売場の棚から商品が落ち、割れた食器もあったらしい。今でこそ、従業員への安否確認を携帯やメールで行っているが、そんなものは存在しない。他の従業員も、自主的に早めに出勤してきていて、みんなで片付けて開店に間に合わせたそうだ。店には、色々買い込む人が来て、その中に、たくさんの支援物資をリュックに詰め「これから神戸まで歩いて届けに行く」という人もいたらしい。この時の経験が、311の時の素早い対応に繋がったと母は言う。何が必要とされるか分かっていたから、すぐに対応して、品切れを起こさずにすんだと自慢気に言っていた。ただのパートなのに、きっと、社員よりも考えて行動している。私は、無力な子供でしかなかった。支援物資を用意することもできないし、誰かを助けられる知識もない、それどころか助けに行こうなんて思えるほど献身的にもなれない。そんな無力さを思い出すのが一番つらい。だから。偽善でもいい……と311の時はTwitterに常駐して情報を発信したりRTしたり、フォロワーさんを励ましたりしていたけど……結局は自己満足で、高校生の頃から何も変わってないんだなぁと思わされる。仕事中に地震があれば、すぐに動ける自信はある。だからこそ、伝えられる情報もある。とは、思っている。きっと、微々たる役にも立たないけれど。自身が危機を乗り切る知識はあっても、助ける知識はない。体力も勇気もない。その程度の人間なのだと、思い知らされる。ずっと、20年間、考え続けても答えは出てない。自分に何ができるだろうか…… PR