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よみぢのほだし

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白鳥異伝

昨日、勾玉シリーズ2作目の新書版「白鳥異伝 上・下」を読み終えました。

久しぶりに会った、遠子や小倶那が懐かしく思えました。

まだ子供の頃に読んだこともあって、内容の多くが理解できていなかったことに気づかされました。

遠子の「女」になることを拒み続けていた頃の無鉄砲ともいえる無邪気さ。小倶那との再会とともに「女」となってからの複雑な感情。女性なら、誰でも感じたことのある思いなのではないでしょうか?「女」であることは、枷であり変化のための通過地点。それは決して、「血の穢れ」などという馬鹿げた言葉で蔑まれるべきことではないのだと。「女」となることこそが巫女として神に仕えるための重要なことなのだと…私の、考え方の基礎は、やはり、この勾玉シリーズの影響をかなり受けているようです。

児童書というには、遠子の心の動きは、あまりにも複雑で重く、そしていろいろと考えさせられるものだと思います。それは小倶那もそう。



物語の端々で、「空色勾玉」の狭也と稚羽矢のことが触れられていて…続編なのだと現実的に思うと同時に、物語の中で二人が遺した多くの物事に思いを馳せました。幽の勾玉が最後の鍵となることも…続編なのだと分かっていても嬉しいものでした。輝と闇が再び、遠子と小倶那のもとでひとつになったのだと…読み終えた後に去来した思いは言葉では表しにくいものです。

最後に残った明の勾玉は、次の「薄紅天女」に持ち越されます。もう発売しているはずなのですが…やはり奈良の書店では、なかなか手に入りにくいものです。年内に読み終えたいのですけどね。



「白鳥異伝」では、まほろばの地が都として語られます。葛木など、奈良に住む私にとって、馴染み深い地名も出てきます。山に棲む蛇神は三輪山を思い出しました。



今の世の中、一般書よりも児童書の方がタメになるのではないか…と思います。世間は純愛ブームですが、児童書に描かれる少年と少女の幼く純粋な恋模様の方が、大人たちを泣かせる目的で作られるドラマよりも、ずっと純愛だと思います。余談ですが……
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ダイエー奈良店

昨日20日でJR奈良駅前のダイエーが閉店しました。

近くまで行っていたので、寄ろうかとも思ったのですが…数ヶ月前に閉店を経験したばかりなので、寂しさ倍増になりそうで、やめておきました。

2月、20余年買い物に行き続け、9年働いた某スーパーが閉店しました。閉店の日のことは忘れられません。遅番だったので、午前中は「客」として買い物に行き、午後から「店員」として仕事をしました。

知人や友人が、顔見知りの馴染みのお客さんが「明日からどうしはんの?」「寂しなるわぁ」と声をかけてくれて…じーん…としながらも、笑顔笑顔で「ありがとうございます」「いつもありがとうございました」と答えながら、最後の日を過ごしました。

最後の最後まで、接客を、レジを続けて…閉店時間を30分以上過ぎた頃…私のいた2階まで拍手が聞こえ、そして店内放送が入りました。「ただいま、最後のお客様が帰られました」と…

一気に気が抜けました。これで本当に終わったのだと、思いました。明日からは、ここに立ってお客さんに接することはなくなるのだと…でも、感慨にふけっている暇もなく、最後の仕事…後片付けに入りました。静かになってしまった店内で、アルバイトと社員と、夜のパートさんとで。

当然、誰もいなくなった店内で記念撮影なんかもしました(苦笑)し、レジの精算とかしながら、交代で売れ残りを物色したりもしました(笑)まあ、大した物も残ってなかったのですが…

昨日、閉店したダイエーの従業員の方々も、きっと、あの日の私たちのような思いを胸に抱きながら最後の日を向かえ、最後の最後まで店に立ったのでしょう。そう思うと…私自身あのダイエーで買い物をして20余年…客側の寂しさも分かるけど、閉店を経験した者として店員側の寂しさも倍増してしまいます。

閉店した後も数ヶ月は、目が覚めると仕事に行かなきゃいけないような気がして…本の数年だったとはいえ体に染み付いてしまっていたんだな…と思いました。時々、また接客の仕事がしたくなります。おばちゃんたちの元気な笑顔が見たくなります。…ストーカーじじいは、いらないけど(まだウロついてやがるらしいしなぁ…)

勾玉シリーズ新書化!≪2005年09月20日≫

勾玉シリーズという、3部作の児童文学があります。荻原規子さんの「空色勾玉」「白鳥異伝」「薄紅天女」です。

日本神話を題材とした物語で、「空色勾玉」が出たのは私が小学生のときでした。初めて読んだのが小学生のときか中学に入ってからなのか・・・その辺の記憶が(発売年が微妙な頃なので)あいまいなのですが、小学生のときの「読書ファイル」でページ数を稼いだ本のひとつだった様な気もするので、きっと小学生のときだったのでしょう。



今年、この3部作が新たに新書版として発行しています。来月には「白鳥異伝」が、11月には「薄紅天女」が出ます。

近々3部作を揃えたいと思っていた矢先だったので、買いたいと思ったことは先触れだったのかもしれません。こういう偶然、結構あるんです。

「空色勾玉」が出て、懐かしさのあまり、購入して即、読み終えてしまいました。狭也や稚羽矢と再会できたことが嬉しかった・・・。でも、一番好きなのは鳥彦だったりするんですけどね。

改めて読んでみると、私は、この作品にかなりの影響を与えられたことが、よく分かりました。なぜ私の中でツクヨミ=男性神のイメージが強かったのか・・・どうやら、月代王のせいだったようです。



今でこそ民俗学の道を進んでいる私ですが、小学生の頃から妖怪が好きだったり、学校の怪談を解明しようとしたり、神話比較をしてみたり・・・と一風変わった趣味を持つ子供でした(笑)おかげで、民俗に進むとき母親から「そっちへ行くと思ってた」と笑われましたが・・・

このシリーズに出会ったことが、今の私に至る、ひとつのきっかけになったのかもしれません。



ハリーポッターなどの欧米のファンタジーとはまったく違う、「八百万の神々」の神話世界が広がる勾玉シリーズ。日本神話そのものがあまりポピュラーではない分(戦後教育のせいで・・・)ちょっと分かりづらいところもあったりするんじゃないかとは思いますが、この3部作は私にとって一番のお勧め作品です。

2005年 地蔵盆

【2005年8月23日(火)   地蔵盆 1】 

今日明日は、地蔵盆です。

最近は子供の数も減って、昔ほどの賑わいを見せなくなった地域も多いですが、この時期になると地元の細い辻には町名の入ったテント張られ、子供たちの名前の入った提灯が吊られ、小さな地蔵堂は飾り付けられて、お供え物が道の端に積まれます。

様相は、町ごとに違うし、時代によって変わってきていますが、道端の地蔵堂に、町の人たちが自然と集まる様子は、なんだか、とてもいい雰囲気です。



石の地蔵像も地蔵盆の行事自体もみんな「お地蔵さん」です。

奈良市内などは7月に行われることが多いですが、大和郡山では8月です。

「お地蔵さんは子供の守り神(神でなく実際は仏ですが)」。本当は子供だけを守ってくれる菩薩さまではないのですが、地蔵堂の前で数珠くりをしたり遊んだり・・・

この、夏休みの終わる直前の地蔵盆は、子供たちにとって、大切な行事ですよね。



今日は、仕事帰りに調査に行きます。

今年はどんな発見ができるか、楽しみです。





【2005年8月24日(水)   地蔵盆 2】

昨日23日は、仕事帰りの短い時間を使って、地蔵盆を見て回りました。

とはいっても、聞き取りできたのは台所町という旧侍屋敷地区の一町のみでした。数珠くりや御詠歌もやっているそうで、見に行こうと思ったのですが、結局、紺屋町の数珠くりを見ているうちに、時間が過ぎてしまいました。

同日のほぼ同時間で行事が進行していくので、一年で調査できる町の数は限られてしまうんですよね。



で、台所町の話ですが。ここの地蔵は「北向き地蔵」という地蔵のひとつでして、他にも合計で7体の「北向き地蔵」が郡山にはあるのです。この「北向き地蔵」を廻って願掛けをするという信仰があるということで、現在、地蔵盆や城下町調査と共に調べてます。

この町では、子供たちのために懐かしい遊びを用意しているそうです。細い道を警察から許可もらって通行止めにして、訪れる町の子供たちが抽選やヨーヨーつりなどをしていました。



また、紺屋町では数珠くりを見てきたのですけど、かわいいですね。小さい子供たちが輪になって数珠を繰っていく姿は。男の子の固まっているところでは綱引き状態で数珠がピンと張ってるのに、女の子の固まっているところでは数珠は停滞してました。

私が幼い頃も、そういえばそんな感じだったな・・・なんて懐かしく思い出したりしながら、同町の知り合いの方々とお話していました。





【2005年8月25日(木)   地蔵盆 3】

 昨日は、奈良・元興寺の地蔵会へ行って来ました。

恥ずかしながら、地蔵研究をしているくせに、今まで一度も行ったことがなかったのです。町の地蔵ばかりに目が行っていて。

なので、びっくりしました。

町の地蔵盆とは全然違うんですね。

寺の地蔵会を見るのは初めてだったんです。

仏教としての地蔵信仰の姿を垣間見た気がしました。

町のほうは、民間信仰としての様相があって、あまり「仏教行事」のイメージはないんですよねぇ。


送り盆、そして・・・

今年も8月15日がやってきました。

送り盆であり、終戦記念日である今日。

テレビはどこも終戦特番を組み、

ニュースは靖国神社参拝を執拗に取り上げ、

・・・・・・そして言うでしょう。

そこまでの沈痛なしゃべり口調から打って変わった明るい口調で、

帰省のUターンラッシュについてを・・・

「さて」という言葉は便利なものですね。



帰省とかUターンラッシュとかって、

本来は先祖祀りのために実家に帰って、

盆が終われば、また日常に戻るというもののはずなのですがねぇ。

盆休みに旅行・・・っていうのは、私はなんだか受け付けません。盆休みも働くのも、どうかと思います。家でゆっくりしましょうよ!ねぇ。

私が、そういう考え方をするようになったのは、

大学のときに先生が話した一言が、私の心に残っているからです。

「(例えば下宿などをしていて、休みに帰ってくるのが分かっているのに)家に帰ってきたとき、

実家の人が全員、自分を放って旅行に行っていたらどう思う?」と、

そして「それと同じで、盆には先祖が家に帰ってくる。その先祖が帰ってきたとき、家に誰もいないと、それと同じ気持ちになる」と・・・・・・目からウロコが落ちました。

昔の人は、そういうことを無意識に分かっていたのかもしれませんね。

「信仰心」とでも言えばいいんでしょうか、そういう心持ちがなくなりつつある現代。

迷信だと言ってすべてを否定するのは簡単だけれど、少しは「見えない何か」への関心を持つのも、悪くはないと思うのです。

人の心をないがしろにする人が増えてしまったのは、こういう感情を持たなくなったからじゃないでしょうかね?

自分がここにいるのは先祖がいたからで、生きているのは生きるために大切なことを支えてくれる誰かがいるからで、そして自分がここにいることで他の誰かもここにいる。お盆になると、そんなことを考えてしまいます。



でも・・・終戦記念日であることも、忘れてはいけないこと。

戦争は必要悪であるとも思いますが、戦争そのものを肯定するつもりもありません。生きること自体が、大なり小なり戦いだと思っています。でも、反省のない強行は、やはり過ちだと思います。今、私たちに必要なのは、「平和」と叫ぶだけではなく、戦争や平和の意味をちゃんと理解して、過去をちゃんと振り返って、すべてを理解した上で先を見ていくことではないでしょうか?それも・・・・・・一国だけでなく、世界すべてがです。

それができるのは、きっと、歴史を学ぶ若い世代なのではないでしょうか?